心身に溜まった世の中の嫌な毒をデトックスしましょう。


by jinsei-detox

亡くなった太田省吾さんのこと

 太田省吾さんが亡くなって、1ヶ月近くなる。彼が棺で眠っている顔を見て、彼は死んだとただ漠然と思った。斎場で焼き上がった彼の骨を見て、昔一緒に作った「ガラスのサーカス」という芝居を思い出した。その芝居は老婆が焼き場の炎の中で焼かれ、するめのように踊りながら一生を思い出すという作品だった。彼も炎の中で踊りながらなにを思ったのだろう…そんな風に思った。
 新聞記事などで彼の死が報じられ、彼の業績も紹介されているが、あの芝居の作られた時代の背景は僕らや観客たちにしかわからないものがある。
 1970年代、赤坂のモルタル造りの小さな倉庫が転形劇場の稽古場兼劇場だった。僕が入団したのはちょうど「花物語」という芝居の稽古の最中だった。品川徹、瀬川哲也、佐藤和代、増田再起などの役者が15坪程度の稽古場で怒鳴るようなセリフを吐いていた。(今売れっ子の大杉漣はもう少し後から入団してきた)
 当時は唐十郎率いる赤テント、佐藤信たちの黒テント、寺山修司の天井桟敷、あと鈴木忠の稲田小劇場などがアングラとか小劇場とか呼ばれて、まさに芝居がおもしろくてたまらない時代だった。僕が太田省吾の転形劇場を選んだのは、彼が読書新聞に書いた奇妙な演劇論を読んだことがきっかけだった。その論旨はあまり覚えてないが演劇そのものにはあまり触れたものではなく、悲しみを迎えた人間の日常を演劇的視点で論じていたようなものだった。ちょっと文学的な匂いもしたけど、エルンスト・ブロッホのような存在論的エッセーに近かった。
 僕は心情的に唐十郎の芝居にも憧れていたけど、彼のモチーフとしていた「河原乞食」になることが出来るようにも思えなかったからだ。もともと役者になりたいという考えはなかったので、引き算をしていったら太田省吾になったのだ。
 入団してからのことを書くと膨大なレポートになるだろうから、いつの日かにそれは譲るとして、僕は極端な貧乏生活に突入していったわけだ。もともと映画を目指していたので、映画の世界はまあまあのギャラが出るからなんとかしのげるのだったが、演劇は持ち出すことがあってもギャラなどをもらえるとも思っていない組織だったのだ。役者連中は早朝の河岸に出るか、大道具のスタッフとしてナグリを打つしかなったのだ。
 僕のアルバイトといえば、焼鳥屋のウエイター、ラジオの原稿書き、たこ焼き屋、電話売り、路上を水平度を測る計測、ピンク映画の助監督、精神病院の看護助手、雑誌のライター、映画のシナリオライターなどなどである。こう書き連ねると結構仕事になっていたように見えるけど、単発ものが多かったので、お金が続かなかったのだ。いま思いだしても冷や汗ものだった。お酒もよく飲んだけど、空回りしていていい酒ではなかった。
 このあたりのことは、ここではよそう。とにかく僕が芝居から足を洗ったのは大きくいえば、飯が食えないことに対する不安、そして太田省吾の芝居が僕の思い描く演劇とかけ離れてきたことからだった。省吾さんの芝居は存在論的なアーツに近づいていったのだ。
 それはももともと僕が読書新聞で読んだときの予兆したものをさらにアーツとして造形していったのだった。例えば「水の駅」のようにセリフがまったくなく、ただ水道の蛇口からちょぼちょぼ流れる水とエリック・サティの音楽で構成されているような芝居である。    
 登場する役者は演じる役者というより演じない役者が理想とされる芝居なのである。その芝居の構造を論理的に詰めていけば役者は匿名性を強いられ、役者のキャラクターは消されていくことだった。
 それでもこれは大きな演劇だったことは間違いないのである。それどころかかつて誰も試みなかった強烈な演劇にちがいなかった。
 その演劇は知的な観客にならざるを得ないものだった。現に知的な人たちが転形劇場そしてT2スタジオ(氷川台の倉庫に劇場を移したときに名前を変えた)には多かったようだ。だが、確実に劇団は経済的に破綻をきたし解散をせざるを得なかったのだった。
 太田省吾は大学の教授に迎えられ、役者たちはそのまま小劇場の演劇を年に1回か2回自分たちで公演したりしていたようだった。大杉漣のようにこまめに映画に出演し、成功した人は希だ。
 僕は劇団を辞めてからほとんど劇場に行くことはなかった。激しい悔しさが込み上げてくるからだった。ほんとうに最近だ。芝居を平気な気持ちで観ることができるようになったのは。
それにしても演劇を死ぬまでやり通すことが出来るなどということは、根性のいることでもあり、僥倖そのものといっていいかもしれない。太田省吾はまだいい。作品が残り名前も残ったから。マスコミに出た奴もまだいい。名前と金をてにしたから。いや、いいとか悪いとかいうことではなく、テレビや映画に出ずにそのまま無名のままで舞台に残っている役者たちは劇のなにを手にしたのだろうか…
 僕は出版社などを起こし、なんとか自分の表現の道を模索し、かつ経済的にも自活できるようになったが、あの頃の表現したかったなにかは自分の何処かにまだくすぶっているような気がしてならない…どうやら太田省吾のようには死に切るには、まだまだ前途多難である。
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by jinsei-detox | 2007-08-12 15:45