心身に溜まった世の中の嫌な毒をデトックスしましょう。


by jinsei-detox

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ゴルフの風に吹かれて

  ゴルフを始めて、おおよそ5年になるがゴルフは実に不思議なスポーツだと実感する。これはやってみなければわからなかったものだが、若い頃はゴルフなんて成金ぽくて、おじさんぽくて、要は中年の暇つぶしゲームくらいにしか思っていなかった。つまりスポーツとしてイメージできなかったわけだ。
 現に僕が30代そこそこの時、あるスコッチウィスキー会社に関連する仕事をして、セントアンドリュースにも何度か訪れることがあり、ゴルフもじゅうぶんやる機会があった。ゴルファーの憧れといえるセントアンドリュースゴルフ場でもやらないかというお誘いもあったのだ。今から思えばなんて馬鹿なことをしたかと後悔するのだが、当時はあっち向いてホイであった。
  僕がゴルフをやることになったのは、50歳を過ぎて、営業の付き合いでやらなければと感じたからである。誘われているうちが花である。
  やり始めるとこれが難しい。止まってる球を打つなんて造作もないことと思っていたが、これが逆だった。止まってる球をなぜこうまで自由に打てないのか、自分の思っているところに飛ばすことが出来ないのかと腹立たしくなるのである。そしてコースに出るまで約3ヶ月間スウィングの練習に費やし、そしてコースに連れていってもらってもひたすらマラソンみたいに走り通しだった。つまりまわりに迷惑をかけないようにひたすらあっちこっちにいってしまった球の後を追ったからである。楽しいゴルフとはほど遠いものだった。
  「ああ、これじゃ仕事の方がどんなに楽かしれないよ」そんな愚痴をこぼしながらもっと若い内にやっておけばよかったなあとつくづく思ったものだ。体がなかなか覚えてくれないのだ。一つ覚えると一つ忘れてしまう情けなさ。でも少しづつゴルフというスポーツにカラダが馴染んでくるのが3年もするとわかってきた。もちろんもらったゴルフクラブから自分で買ったものを使い出している。ドライバーも2本も購入した。ゴルフ上達の本も10冊くらいは読んだだろうか。読んでいると試してみたくなり練習場でなんとなく納得したつもりなのだが、コースに出ると全然わかってなかったことがわかるのである。
  でも悪女の深情けという言葉があるが、僕もすっかりゴルフという悪女にはまってしまっていることを自覚する。自分の思い通りにならない女を自分のものにしようと悪戦苦闘する姿に似ているのである。それこそ、それが相手の思うつぼなのにね。
  朝、ゴルフ場の1番ホールのショットを打つまでは、「よし今日こそは100を切るぞ」と期待に胸をふくらませるのだが、18番ホールを終えた時は、「ああ、疲れたなあ。ゴルフって難しいなあ」とため息吐息でハウスに引き上げるのである。よし、いつかは80台70台のスコアを必ず出すからなとゴルフの風にそう誓うのである。
  それにしてもゴルフは不思議なスポーツだと改めて思うのである。
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by jinsei-detox | 2006-09-24 10:29
  いまさら驚く光景とはいえないのだろうけど、こんなことがあった。
  埼京線の大宮のホームのこと。僕は都心に向かうホームにいた。その反対側は川越に向かうホームである。通勤ラッシュを過ぎた時間とはいえ、まだ充分に通勤時刻圏内のことだった。
  二人の制服を着た女子高校生が反対側のホームにペタリと腰を下ろし、一人は手鏡を持ってお化粧をし、一人はお弁当を食べていた。彼女らはまったくふつうの顔をして、なんの恥じらいもなくあっけらかんとしている。まるでピクニックにでも来て、野原で「今日はいいお天気で、最高ね」とでも言っているような感じなのである。彼女らの傍らには電車を待っている人々が当然いるのである。もっとも都心の山の手線あたりと違って、15分くらいは待つのがその時間帯なのであるが、それにしてもいったいこの現象をどう理解したらいいのだろうか…
  15,6歳の女の子といえば花も恥じらうほどの妙齢な年頃ではないか。箸が転んでも笑ったり、ちょっとしたことで泣いたりと多感な時期の筈。でもまるで彼女らは恥ずかしさという感情をもっていないかのような振る舞いである。少女があっという間に婆になると劇中の歌で唄ったのは赤テントの頃の唐十郎だったが、ひょっとして彼女らは婆が制服を着ていたのだろうか。あまりにも劇的な情景を目の前にして僕はただ唖然としていたのである。
  弁当を食べている女の子はご丁寧に弁当の匂いまでかいでいる。一方の女の子はひたすら目元にシャドウーをいれている。
  電車の中で化粧をする女が現れだしてからずいぶん経つが、いまではそれらが奇異な光景にならなくってしまったほど、日本の恥の文化も変わってきた感がある。それは個と公共の倫理がケジメのないものになってきた現れでもあるだろうし、モラルの低下から起こってくる現象なのだと分析することも出来るだろう。
  脳が壊れてきているのだと言ってもいい。でも彼女らの脳に恥の感受性がなくなっているかといえばそうは言えないはずだ。彼女たちにホームでストリップをやれといってもできないにちがいない。ストリップまでとは言わないまでも、たとえばババシャツを着ろといっても彼女らは恥ずかしがって着ないだろう。つまり、いまの日本には恥の規範性が世代において違ってきていると言えるのかもしれない。むかしであるならそれはいろんなの世代を通じて共通するものがあったからだ。たとえば男なら軍隊に入り、共通な体験を持つことによって共有する規範をもつという具合に。
  若い女の子にとって電車の中やプラットホームで化粧をすることは恥ずかしい行為ではないのだ。そういう規範性がない脳をもつ子を私たち大人が作ってきたのだ。きっとあの子たちの親も同じようなことをしているにちがいない。その親を育てた親も似たようなことをしてきたに違いない。世代的に考えれば戦中生まれあるいは戦後すぐに生まれた人間が祖父母にあたることになる。
  いくらアメリカが戦後この国の人々を痴呆化しようとしても(その成果を着実にあげてきたのだが)、まさかここまでその政策が成功するとは思わなかったであろう。
  坂口安吾が戦後の間もない頃「堕落論」を著し、日本人の戦前、戦中の倫理観をいっさい否定し、生きるためには人間は堕落せねばならぬ、堕ちきることにより真実の救いを発見
せよというと逆説的言辞を述べていたが、いまやその逆説がいつのまにやら本道になってしまい堕落の果てに我らは行き着いたのである。
  坂口安吾もまさか日本がこんなふうに堕落?するとは思っていなかっただろうなあ…あの少女たちがやがて結婚して子どもを生むんで、どんな子を育てるのだろうか…
  川越行きの電車がホームに入ってきた。彼女らはおもむろに立ち上がると、電車に入り込み空席をさがして、またお弁当を食べつづけ、そして化粧をしていた。
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by jinsei-detox | 2006-09-17 09:44

泣く女


  朝やや遅めの通勤電車で若い女性が文庫本を読んでいた。女は真っ赤な目をしてしきりに鼻をグシュングシュンさせハンカチで鼻水を拭いていた。
  本を読んで泣いているのだ。きっと泣ける小説に違いない。
  僕も以前、電車の中で小説を読んでいて、危うく涙がこぼれそうになったことがある。人前でいい歳の男が小説を読んで泣いている図なんて、あほらしくてというよりも絵にならない。僕は慌てて頭の中をエロモード、あるいは政治モードに切り返したりして、その危機を乗り越えたことがある。
  あれは確か浅田次郎の「壬生義士伝」だった。多くの人が感動したであろうあの物語は確かに泣かせる話だった。父と子の心情に思わず目頭が熱くなり、作家の浅田次郎を忌々しいやつだと恨んだことがる。僕は彼が作家として登場してからのファンであり、かなり昔にインタビューもしたこともある。そんなうちうちの楽屋を知っている男の書く物語に不覚にも涙腺を緩ませてしまったことに、改めて浅田次郎の筆力のすごさを知ったものだ。(映画の「壬生義士伝」は泣く用意をして席に座ったが、肩すかしを食わされてしまい泣けなかった)
  女の隣の席に座っていたおじさんが怪訝な面持ちで女を見ては彼女の文庫本を覗き込もうとしている。僕も女がなにを読んでいるのか知りたかった。恋愛小説だろうか?気になって仕方ない。
  それにしても感動して涙を流すのは気持ちのいい行為であるにちがいない。泣いてるときはなんだか自分がいい人になった気持ちがするからね。ヒューマンなこころが泣かせるわけだから。
  昔、中学生の息子と映画の「オペラ座の怪人」を見たことがある。息子が怪人が女を思う気持ちに同情したのかハンカチを出して目頭を拭いているのに気づいた。息子も男の気持ちがわかるようになったんだなあという感慨もあったが、それよりも彼はあまり情緒的な人間ではないと常日頃思っていたので、ビックリしたというより、へエーッという感じで安心した記憶がある。
  僕なんぞは歳をとって涙もろくなったのか、映画館に入れば必ずと言っていいほど目頭が熱くなるシーンにぶつかるのである。(歳をとるとなんで涙もろくなるのだろう?)でもときどき映画館の中がすすり泣きの合唱みたいになるときがあるけど、あれはちょっといただけない。だってそういう映画は泣かせようという演出が見え見えの映画なんだから。そんなものに泣いてたまるかだよ。
  それにしても泣くって言う行為は体にいい。泣いた後の爽快感がこころに広がる時間は得難いものがある。ストレス発散の貴重な時間でもある。
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by jinsei-detox | 2006-09-14 12:57
人生的デドックス    プロローグ
  今までにいろんな人生論的含みを持つ書籍を目にしたことがあるが、そのなかで目につく言葉に「前向きな発想」「プラス思考」「感謝」などがある。ある年齢が来ると人生うまく展開していく機微にそういう思考が必要なことが実感されるのは確かなことである。もっともそう感じるのはこころに余裕がなければならないだろし、また自分の言動を常に振り返る習性を持ってないとそういった思考そのものの方向性を意識することもあるまい。
  このコラムはそういうことを少し意識して、こころが陽性に傾くような事象を語っていきたいと思う。もともと僕は天の邪鬼なところがあり、物事の陰影にこだわる嗜好もあったり、日陰の花が好きであったりするから単純に自分のこころの芽をお日様へと向かわせることができるかどうか…でもこのhpは健康的な生活を営むことをテーマとしている訳だし、僕とて根は明るいはずであり、健康生活を望まないわけもないわけだから、物事を陽気に眺めることを習慣づけたいと思っている。とはいえ街で目にする腹立たしいことなども、見ないふりもできず、口に出してしまいたい心情もあるだろう。それはそれで毒素のママ吐き出してしまおうと考えている。とにかく自分のこころに日々貯まっていく毒素を出していくつもり。
  もっとも気をつけたいのは自分だけのデトックスではなく読者の気持ちも陽性になるようにしなくてはね。


挑戦するナイスガイ
  すでにジムのリングでのスパーリングは4人目の新しいパートナーになっている。男は最後の気力を振り絞って、自らのスタミナの限界を超える動きの中にいた。汗が飛び散り、激しい男の息づかいを聞いているだけで、見ている者にも緊張を強いらせた。スポーツをやった者でなければわからないあの、極度の疲労が伝わってくる。3分のブザーが鳴り、男は今にも倒れそうになるのを我慢しセコンドが差し出すペットボトルの水を口に流し込み、バケツに吐き出す。
  男は163センチと小柄なサウスポーのボクサーだ。目指す階級はWBCのライトフライ級チャンピオンである。具志堅ジムの嘉陽宗嗣だ。
  ジムの中は男たちが黙々と練習に励んでいる。実に久しぶりに男たちを見たという感慨にふけった。昔、プロ野球の選手の練習や相撲取りの稽古をも見たことあるが、むんむんと醸し出すあの一種独特の匂いに懐かしさを感じた。
  ボクシングはまさに闘争本能そのものの象徴的姿である。やってみた人間はわかるけど、3分間相手と戦うというのは本当に長いものだ。(殴り合いの喧嘩だって3分なんてやれない)ヘッドギアを付けてはいるというもののよくまああの強烈なパンチを食らったりして、どうにかならないものだ。
  むかし、子どもの頃母親が、テレビでボクシングの実況放送を見ていると、ボクシングだけはなにがあってもやってくれるなと真剣な顔をして僕に言ったことがある。母親だったら我が子が殴られるのは見るに耐えられないという。確かにボクシングをやって脳にダメージを受けてしまった男もたくさんいる。
  とはいえボクシングには男の夢がある。その夢を熱く描いてくれたのは、なんといってもボクシングマンガの金字塔である「明日のジョー」だった。映画だってジョン・ボイドの「チャンプ」シルヴェスタ・スタローンの「ロッキー」やロバート・デニーロの「レイジング・ブル」それと最近では「ミリオンダラーベイビー」(これは見ていない)がヒットした。
  「どんなもんじゃい!」亀田弘毅ではないが、男だったら吐いてみたいセリフをチャンピオンになったら映画やマンガの世界ではなく現実に吐いてみたい気持ちはよくわかる。
  ところでボクシングといえば最近、亀田3兄弟の言動が世間から注目を浴びるようになっているが、私も最初の頃はやんちゃな彼らの言動に微笑ましいものがあるように思っていたが、2度目以降の試合とその前後の彼ら親子のパフォーマンスはどうしてもいただけないと思うようになった。あれはオヤジの品格の無さがすべてを台無しにしているのだ。
  勝負は一瞬の運、そのことを熟知しているものならば、下品な自分を貶めるような言動は取れようもないはずである。ましてリングのうえで下手な歌を歌うなんて恥ずかしい限りである。父親がそれをひっぱたいてやめさせるのが勝負を知るものの節度ではないか。
  それに比べ、嘉陽宗嗣君は違った。ひたむきな、しかも謙虚さが身に付いている男である。
彼とて少年時に背の低さを人から馬鹿にされたことから、喧嘩に強くなりたいとボクシングを習い始めたという。ふつうの男の子の心情である。
  私と話していても、照れ性の彼の笑顔がとてもいい。
「プロになって思ったことは、プロはやるかやられるかの世界です。アマチュは負けても、また明日があるからです」世界に挑戦するからには絶対負けられない。「やるだけのことはやったので悔いはないという気持ちでリングに上がります」
 亀田3兄弟についてどう思うかと訊くと
「人は人。僕は練習を後悔がないくらいやってます。リングの上ではなにも考えずに戦えると思います」笑うと本当にあどけない少年の目だ。
  10月9日、ワンディ・シンワチャーとの試合が世界挑戦への一歩であり、チャンピオン奪回の戦いになるのである。
  世界へ躍り出る男の厳しい練習に耐える姿が、私の中の闘争本能を刺激した。私も彼に負けず、やらないとな…そんな風に自然と想いがわき上がってくる。
  「凄いですね。いいものを見せてもらったなあ」取材の若いカメラマンもしきりに帰り道、
感動したのだろう何度もそう呟いていた。
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by jinsei-detox | 2006-09-11 16:16